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Make a good run and good Life

義肢

スポーツ

Make a good run and good Life

~1本のスポーツ義足が私の人生を変えてくれた~

松本  功 (BLADE RUNNER・義足ユーザー)

2016-12-15

2016年12月11日ホノルルマラソンを完走した義足ランナー松本功さま。スポーツ義足との出会いからフルマラソンを走るようになるまでの日々を詳細に綴っていただきました。
Congratulations!! You gave us hope.

スポーツと無縁の約40年間


9才で切断、50才まで運動と無縁だったメタボ義足ユーザーがフルマラソンを走れるようになった理由!?
その答えは、右の写真の通りです。

まさに、1人の義肢装具士さんとの出会いと1本の義足で私の人生は変わりました。それも50才から。スポーツと無縁の約40年間。もともとかけっこは速い子供でしたが、9才で肉腫により右下腿切断し義足生活が始まると運動しない生活へと変わっていきました。   

当時義足でスポーツという発想もなく、小学校では体育授業はすべて見学。危険だという事で運動をさせてくれませんでした。ほとんどの体育授業は見学でしたが、普通に友達と遊び回り少しは走れる様にもなりました。よけいな事をくよくよ考えない子供の順応性の高さという事でしょうか。ですが本格的にスポーツに打ち込むには至りませんでした。そのまま社会人になると、仕事中心の生活で運動不足は続き、当然のようにメタボ体型まっしぐらです!

しかし、愛読していた雑誌は「ターザン」
ずっと、健康な身体やスポーツマン体型に憧れてはいました。

まずはジョギングして痩せたい!
痩せたい一心で走ってみますが5分もしないうちに断端がこすれてキズができます。切断して以来履いていたのはPTB式ソケットでカフベルト懸垂の義足でした。スポーツする事を前提には作られていません。やはり無理か!と断念します。これ以後も何度かトライしましたがやはり同じ結果でした。
 

筋トレを始めても三日坊主。
仕事で疲れると、呑むは、食べるは、寝るは、もう最悪です!
 

こんな日々を送っているうちに身体はどんどん膨らんでいきました。20代後半からお腹が膨らみ始め気がつくと40代では立派なメタボ体型が出来上がっていました。身長172cm、体重74kg 数字だけみるとそうでもないのですが、筋肉はなく脂肪だけでできているような身体でした。この頃、よく面白がってせり出したお腹を突き出した写真をよく撮っては家族に笑われていました。

そんな40代後半、その後の人生を変えるキッカケとなるお話が舞い込んできました。

 メタボ×スポーツ義足=マラソンランナー

2007年下腿義足モデルを始める

義肢装具士養成学校で下腿義足のモデル募集!

学生さん達が実際に義足を製作する授業でモデルをさせていただく事になったのです。これまで、義足ユーザーの方との交流はほとんどなく、義肢装具業界の情報もほとんど知る事はなかったので、他のモデルさん達とお会いする事ができていろいろと情報を得る事ができました。モデルさんの中には野球をされている方、元陸上選手、元パラリンピック選手などスポーツをされている方もおられました。

 

しばらく忘れていた「ジョギングしたい」という気持ちがまた湧いてきました。

日本のスポーツ義足の第一人者との出会い

その学校には長年スポーツ義足を研究されている義肢装具士さんがおられました。実際に「義足の鉄人」と呼ばれるアスリート達のスポーツ義足を製作されている内田先生です。私は先生に今までの経緯をお話し「走りたい!けれど走れない。」と愚痴ったり相談したりしました。

私の気持ちが伝わったようで「じゃあ、練習用の義足作ろう!」という事になり、製作が始まりました。嬉しくてそれからの私は、その「練習用」義足ができるまで、生活習慣を見直し、食事の事にも気を遣って、筋トレも始めました。実際に走る練習を始める前の準備期間といった感じです。いくら良い義足ができても、体力がなければ走れないし怪我にもつながります。あまり自信がなかった膝の事が気になって整形外科にも受診し、これから義足で走りたいと相談し、アドバイスも受けました。

今思い返すと、いきなり走るのではなくこの準備期間があった事で無理なくケガもなく走る事を始められたと思います。
 

一本の練習用義足が私を変える!

2009年夏、待ちに待った練習用義足が完成しました。授業が終わったばかりの教室に完成した練習用義足を持って来てくれました。今まで肌色の義足しか履いた事がなかった私には、それはまさに超クールな黒光りした「スポーツ」義足でした。足部は古いので少し固いかも、というお話でしたが、履いてみると明らかに軽く、少しの小走り程度でもそれまでの義足では感じた事が無いような軽く走れる感覚でした。
 

アドレナリン全開の興奮状態です。教室を何度も行ったり来たり、学生さん達の前で試歩行、試ジャンプ、試走を何度も繰り返して感触を楽しんでいました。


この日、記念すべきスポーツ義足デビューの日となりました。

練習用スポーツ義足

トレーニング開始!

トレーニング開始!とは言ってもいきなり走れるものではありません。当時1分走るともう息が上がっていました。内田先生からのアドバイスもあり、毎日1時間のウォーキングからトレーニングを開始しました。ウォーキングと言ってもその当時の私にとってはかなり息が上がるくらいのウォーキングです。
 

当事はウォーキング開始直後から両太ももの筋肉が悲鳴をあげていました。とにかく距離は考えずに、1日のうちの1時間を必ずウォーキングの時間にあてるようにしました。幸いな事に近所に体育館があり、ランニング用ウォーキング用の屋内コースがあったので雨天でも練習できました。 基本はムリせずゆっくりと。
 

20分のウォーキング後5分走って35分ウォーキングで終了、という感じで1時間。半年後には続けて20分近く走れるようになっていました。ある一定時間走り続けるなんて以前の私では、とても考えられない事です。
 

そうなると楽しくてトレーニングを続ける事に苦痛など全くありませんでした。続ければ続けるだけ身体が高性能になっていくのが実感できるからです。気がつけば1時間走り続けられるようになり、1年後には1時間以上、距離も10km近く走れる様になっていました。 あくまでも、ゆっくり、です。
 

それまでの人生でこんなに身体を動かした事はないというくらい、運動する事が習慣となり、明らかに健康になっていきました。なんと言っても身体のラインが絞れてきて、パンパンだった顔も小顔になり明らかに見た目が変わってきました。時々会う母には「あんた病気と違うか?」と言われるくらいです。74kgあった体重は59kgまで落ちていました。

 

内田先生のソケットと足部のバリフレックスモジュラーは身体に馴染み、快適に走れ順調にトレーニングを続ける事ができました。当初の目的であったジョギングはもう十分できるようになっていました。

義足の鉄人が背中を押してくれた

ジョギングを楽しめる様になってきた私にまたその後のランニング人生を決定づけるような出会いがありました。内田先生のおかげで古畑選手と前田選手という義足の鉄人と呼ばれる下腿義足のトライアスリートの方とお会いすることができたのです。あまりにも凄い方々で私とは別世界の人達だ、と思いながらも有意義で色々なお話を聞くことができました。
 

そのお二人が出場される三田マラソン(ハーフマラソン)へ応援に行く事になり、会場へ着くと、まるで元気のかたまりのようなランナー達で一杯でした。そこにスポーツ義足を履いた古畑選手と前田選手の二人が現れると、また私の中のアドレナリン全開です! 
 

古畑選手は1時間20分、前田選手も制限時間2時間30分以内で完走され、二人の清々しい顔を目の当たりにしてしまった私は「マラソン走りたい!」という気持ちが湧いてきました。二人の鉄人が私の背中を押してくれているように感じられ、なぜか私にもできるような気がしてきたのです。
 

その日以来、ジョギングからマラソン大会出場へと目標が変わっていきました。

内田先生、古畑選手、前田選手と共に(三田マラソン)

2011年マラソンデビュー

ゆっくり長く走る習慣は順調に続ける事ができ、日常的に10km走れるようになっていた2011年の春、10kmマラソンに出場しました。マラソン大会デビューです。ゆっくりでしたが初めての大会出場を経験できてゴールをくぐったときは感動と共に興奮状態でした。もうやめられません!
 

この年の目標が決まりました。12月の三田マラソン(ハーフマラソン)に「出場」する事!(完走ではなく出場です)
 

そしてこの2011年は大阪マラソン、神戸マラソンが始まった年でもあり、ダメもとで両方ともエントリーしました。10kmの部とフルマラソンの部がありましたが迷わずフルマラソンの部で!

結果、大阪は落選しましたが、神戸マラソンは当選!
これで、目標は「三田マラソン出場」から「神戸マラソン完走」へと変わりました。ハーフ出場からフル完走へ、です!!
 

さすがに内田先生は「まさかフルですかぁ?」とあきれておられました。ただその時の私は当選した嬉しさの勢いもあってか、完走できそうな気持ちになっていました。それからは色んなマラソン本を読みあさり、初心者でしかも義足の私がどうしたらフルマラソンを完走できるか、を考えながら準備を開始しました。
 

まず20kmをゆっくりでも走れるように、ゆっくり長く走る練習を続けました。

バリフレックスモジュラーからフレックスランへ

しかしながら、なかなか20kmをクリアできません。この頃、義足側の膝に痛みが出始めていましたが、少しずつ走行距離が伸びていた私に内田先生は、

「そろそろ競技用のフレックスラン履いてみる?」 と!

2011年8月の事でした。
もう全て内田先生にお任せして、足部をフレックスランに変更することになりました。フレックスランに変わった途端、義足側の膝痛がなくなり、より楽に走れるようになりました。フレックスランだと着地の時の衝撃が柔らぐ感じで、膝や股関節への負担が減ったようです。これならゆっくり長く走れそう!とはいってもフレックスランで急に走行距離が伸びたわけではなく、焦り始めた頃、9月に地元であの有森裕子さんが来られるランニングイベントがある事を知り参加する事にしました。このイベントは3時間走でレースではなく、各自が自分のペースで3時間走り続けるイベントです。秋のレースに向けてちょうどいい練習会です。

当日、会場へ行くとまだまだ義足は珍しいようで多くのランナーが、遠巻きに私の足元に視線を集中させています。そんな時、なんと有森裕子さんが「カッコいいね!初めて見た」と話しかけてくれました。有森さんは特定非営利活動法人ハート・オブ・ゴールドという団体でカンボジアに義足を支援する運動をされているので、義足の事はもともとご存知でしたが実際にフレックスランをご覧になったのは初めてだったようです。

「頑張ってね!」と激励していただいてまたまた私はアドレナリン全開!状態です。

そうこうしていると、恐る恐るですが私に話しかけてくれるランナーもチラホラ。遠巻きにされているより、話しかけてくれた方が私は嬉しいです。スタート時間まで義足の事を色々と説明したり、フレックスランを触ってもらったりしていました。

その日は、初めて3時間で19kmまで走る事ができました。20kmクリアまであと少しです。イベント終了後には有森さんにサインしていただいて記念写真まで撮っていただきました。このイベントが後のフルマラソン完走への大きな足掛かりとなりました。

           

フレックスラン (オズール社)

20km走破!初フルマラソン完走!

有森さんのおかげでますます勢いづいて来た私は日々トレーニングを重ねて、ついに20km走破に成功します。しかし、想像以上に20kmは辛いものでした。20kmを超えた瞬間、筋肉の疲労はそれまで感じた事がないくらいに、股関節の痛みは増し、お尻や太ももの筋肉は悲鳴を上げていました。「こんな状況で20km以上走れるのか?」と不安がよぎります。結局、20kmしか走れない状況で神戸マラソン当日を迎える事になりました。いろんな本を読んで準備はしました。
作戦も考えました。必要なモノも買いそろえました。ですが、

「42.195kmを走って自分の身体に何が起こるのか?」
「そもそも42.195km本当に走れるのか?」
「断端は?義足はどうなるのか?」

不安と恐怖感で神戸マラソン前日の夜は眠れませんでした。しかし、当日の朝それらの不安が全て吹っ飛びます。神戸へ向かう電車の中はランナーらしき人たちで一杯です。三ノ宮の駅を降りると2万人近いランナー達が集まっていて異常な盛り上がりを目の当たりにすると、ここにいる事がありがたくて幸せに感じ始めていました。多くのランナー達と激励し合いながらスタートラインへ向かっていくうちに昨晩までの不安や恐怖感はもうなくなっていました。


天候は快晴、記念すべき第一回神戸マラソンという事で神戸の街がお祭り騒ぎのような盛り上がりの中、スタート!

制限時間は7時間、キロ9分ペースを目標に走ります。普通、健常者が走るジョギングがキロ6分といわれているのでかなりゆっくりです。マラソン本で読んだ通り無理せずゆっくりペースで走っていると、どこまででも走っていけるような気分で順調に走り続けられました。何よりもソケットの適合が完璧で痛みもなく、義足をつけていることすら忘れてしまうくらいの感覚でした。これは義足ユーザーとして何より一番嬉しい事です。本当にどこまででも走っていけそうな感じ!

ついに20kmに到達し、その後は未知の領域です。ところが20kmを過ぎても気分が高揚しているのか意外にも気持ち良く走れている事に驚きました。ここまで義足のトラブルは全く無し。しかしやはり25km過ぎたあたりからは感じた事がないような両足の筋肉疲労状態になっていました。

1km走ってはストレッチ、を繰り返しながら、1kmごとの距離表示をみながら、時計でペースを確認しますが明らかにペースは落ちています。しかし不思議な事に悲壮感は全くなく、ただゴールする事だけを考え、頭の中で「いける!やれる!」と自分に言い聞かせて走っていました。沿道の応援の人たちに笑顔で応えるだけの余裕があり、ハイタッチしながら走行。身体中の筋肉が悲鳴を上げているのになぜこんなに楽観的になれたのかわかりません。そのうち、周囲のランナー達の中にはゾンビのように歩き始める人も増えてきました。後を見ると収容バスが追いかけて来ているのが見えます。ですが、各関門の制限時間をクリアしながら、ペースは落ちていますがなんとかいけそうです。そうこうしているうちに神戸マラソン最大の難所である35km地点の浜手バイパスへたどり着きます。ここから上り坂が延々2km近く続きます。

私の頭の中は相変わらず「いける!いける!」状態です。一気に上り坂を登り始めた途端、ついにきました!!
太ももの痙攣!さすがに身動きができなくなります。絶体絶命状態です。ポートタワーが目の前でこっちを見て笑っているように見えました。痙攣はなかなか治まらず、ちょっと動くとまた痙攣するので治まるまで待ちます。少しずつ歩き始めて様子を見てまたゆっくり走り始める事ができました。それからも上り坂はまだまだ続きましたが、なんとか走って上り切り神戸大橋を渡ってポートアイランドへ。今度は下り坂を下りていきます。周囲には一段とゾンビ達が増えて来ました。
 

最後の関門38km地点を通過すると完走を確信し始めます。残りの距離をなんとか走り続け、最後の直線距離約500mは完走へ向かってのビクトリーロードです。一段と観衆の数が増え、ゴールが正面に見えてきました。そのゴールが少しずつ近づいて来るのは感動ものでした!最後の力を振り絞って走り、応援してくれる人たちとハイタッチしながらのゴール!

6時間43分22秒、これが私の初フルマラソンの記録です。太ももはパンパン。上半身も筋肉痛。これまでの人生でこんなに身体を動かし切った事はありません。そして義足のトラブルは一切なく、断端にはキズひとつできていません。私をフルマラソン完走させてくれた神業ソケットとフレックスラン、内田先生にただただ感謝です。

こんなに辛いのに、一度ゴールをくぐると不思議な事にまた次のレースを走りたくなってきます。
 

スポーツ義足が私の人生を変えてくれた

2009年夏からウォーキングを始めて2年後の2011年秋、ついにフルマラソンを完走することができました。ちょうどトレーニングを始めた頃の私は自宅で義理の母の介護をしていたので、トレーニング時間は常に介護の合間に行っていました。早朝から深夜までの介護のストレスも、走る事で精神的にも肉体的にもリセットができました。以後8年間、介護生活が続く事になりましたが、このタイミングでランニングに出会えた事は大変ありがたい事でした。

そして2011年以降、毎年フルマラソン、ハーフマラソンに出場し続け、全てのレースで完走する事ができています。今では走れる事がありがたくて、楽しくて仕方ありません。私が走れるのは義肢装具士さんやいろんな方のサポートのおかげだと感謝しています。

1人の義肢装具士さんが作った1本のスポーツ義足が私の人生を変えてくれました。

こんなゆるーいランナーなのに、新聞、テレビ、ラジオなどに取り上げられたり、あちこちのレースに参加する度に多くのラン友ができたり、パシフィックサプライ社とのご縁から展示会やイベントでモデルをさせていただいたりと、この年齢になってこのような人生が待っていたとは予想もしていませんでした。今後も、ムリせず、アセらず、ケガせず、走る事を続けていきます。皆さんのサポートに感謝しながら!

目標は、80才でも義足で走っている事、です。
 

(下腿義足の市民ランナー  松本 功)




Vari-Flex Modular 

階段の走り

LIFE WITH OSSURPHOTO GARDEN????  

2016年12月11日 あのホノルルマラソンに松本功さまがエントリーし、見事完走されました。この時のシーンがInstagram (インスタグラム) #ライフオズール でご覧いただけます。
 

パシフィックサプライでは、?オズール社の義足が毎日のなかに、当たり前に、すぐ側にあることを多くの人に知ってもらえたらとLIFE WITH OSSURPHOTO GARDEN????  (ライフオズールガーデン)を開設しました。みなさまのオズール義足とともにある毎日のシーンを気軽にInstagramにハッシュタグ 『#ライフオズール』 をつけて投稿してください。
 

ご一緒に素敵な~photo garden~をつくりましょう。

 

#ライフオズール

#ライフオズール

#ライフオズール 2016.12.11 ホノルルマラソン

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