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私の選んだ生き方① ~How to Enjoy life and work~

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私の選んだ生き方① ~How to Enjoy life and work~

パシフィックサプライ株式会社 事業開発本部  関根 彩香

2018-09-03

私は、「頸髄損傷」という障害があり、車椅子で生活しています。
この度、この場をお借りして、「私の選んだ生き方」というテーマで、障害のことや弊社に入社するまでの
経緯や、自らの想いを綴りたいと思います。

こんにちは 新人の関根です!

4月にパシフィックサプライ㈱事業開発本部に配属になりました、関根彩香です。私は12歳の時に頸髄を損傷して、車椅子ユーザーになりました。

それまではというと、保育園の頃から器械体操に夢中になり、小学1年生から本格的に競技を始めました。 
将来の夢はオリンピックと夢見る少女。勉強は苦手、24時間365日、体操のことばかり考えているような子どもでした。

そんな体操中心の生活をしていた中学1年生の時、全国大会に向けて、新しい技を練習していたときに失敗し、頭から床に落ちました。
この一瞬で人生が180度変わることになるとは、この時まだ知る由もありませんでした。
 
年齢を考えてか、障害の話を主治医から聞くのは3ヵ月以上先でしたが、自力ではどこも動かせず、感覚すら戻ってこない
身体に、なんとなく「これはヤバいやつかもしれない」と感じるようになりました。
結果、頸髄の完全麻痺によって、一生車椅子生活になりました。
 
頸髄損傷は「完全麻痺」と「不全麻痺」があり、同じ位置を損傷していても後遺症にはかなり個人差がある中、私は「完全麻痺」。胸から下の身体の感覚は無く、動かすことはできません。
腕は動かせますが、左右差があります。握力はゼロで、指を動かすことはできません。
 
受傷当時は幼かったのと、能天気な性格もあって、あまり深く考えることも落ち込むこともなく、徐々に出来ることが増えていくことを喜んでいました。

最初の岐路

6ヵ月の入院生活が終わろうとしていた時のこと。

当初はリハビリを継続するための施設に入所予定でしたが、18歳以上という年齢制限と、特例でも義務教育を終えていないと入所できないという謎の規約の為、まだ13歳だった私は、直前で入所がかないませんでした。そこで急遽提案されたのが、学校・病院・宿舎が併設された施設への入所。私の意見なんて聞かれることもなく、A県とB県どちらの施設にするかという話が進んでいることを知ります。
 
退院したら自宅に帰れる、とあたり前に思っていました。そのために必死にリハビリしてきたのに…。
 
しかし当時はこのパターンがあたり前とされ、『重度障害児は自宅(地域)で生活なんてできない。親も子も共倒れになるから、設備が整っている施設に行った方がみんな幸せ』という考え方が主流だったようです。

この話を聞いた時「え?待って、家に帰るに決まってるじゃん!」「義務教育を受けなきゃいけないのなら元の中学校に戻る!」
「みんな幸せ?私の幸せを勝手に決めないでよ!」と怒りがこみ上げてきました。
振り返ると、この気持ちが「絶対に自宅に帰る」「元の中学校に復学する」という原動力になりました(笑)。

その後も山あり谷ありでしたが、校長先生が思いを受け止めてくれたおかげで、元の中学校への復学が実現します。
 
当時はまだ全介助の車いすで、かろうじて電卓くらいの大きさのキーボードでパソコン入力ができるようになった状態。これでノートも取れる!と意気込んで復学したものの、予想以上に授業の進行は速く、入院していた6ヵ月間の勉強が抜けていたため授業にも全くついていけずに挫折。

 ほぼ聞くだけのもどかしい数ヵ月間を過ごしながら、必死で筆記の練習をしました。

今になって思うと、パソコン入力のスキルを高めた方が良かったのではないかと思いますが、当時の私はそうは考えなかったようです(笑)。 


学校の先生方も障害のことをあまり理解していなかったと思います。なので、良い意味で遠慮なく、みんなと同じ課題を出してくれました。
「明日まででいいよ」と猶予はくれますが、6時限分溜まると宿題地獄。

当時は必死でしたが、今では「君はやらなくていいよ」と甘やかされず、どうやったらできるかを試行錯誤する日々が、とても良いリハビリになったと思います。

私を変えた夏

高校2年の時、東大の先端研が主催するDO-IT Japan(障害学生のための高等教育への進学とその後の就労移行支援を通じ、将来社会のリーダーを育成するプログラム)に選抜され、私は大きく成長することになります。そこで、「テクノロジーの活用」や「セルフ・アドボカシー」、「障害の理解」、「自立と自己決定」など、様々なことを学びました。

DO-ITに参加して、社会の中で自分の役目を果たし、自らの意見を発信し、障害の有無に関わらず、様々な困難のある人が共に生きるためには、どのような社会のあり方を目指すべきかを考えるようになりました。また、テクノロジーを使えば困難を解決できることも知りました。

にも関わらず、それを認めない社会があります。まだまだ障害児の進学、就労、社会参加には課題がたくさんあります。障害が重度になるほど、その課題も大きくなるのが現実です。

私はリーダータイプではないので、私の失敗から学んでもらえるような先を歩く人になれればと思っています。同時に、私が先輩たちから夢や勇気をもらったように、今度は私の経験を伝えることで、「こんな生き方もあるんだ」と選択肢を与えたい。
後輩たちにも、「楽しそう」とか、「やってみたい」と目を輝かせてほしい。そんなきっかけを作ることができたら幸せだなと思っています。

その後、大学、大学院へと進学します。頸損にならなかったら、こんなに勉強していなかったと思うので、人生って不思議ですね(笑)。

 

※上の画像をクリックすると、拡大画像(PDF)が別ウインドウにて展開されます

画像提供: DO-IT Japan 事務局  http://doit-japan.org/ 【2008年度報告書】

インターンシップで働く自信をつける

大学院に進学して1年後、少しゆっくりしながら自立生活の基盤をつくろうと休学を選択しました。
そんな時、IT企業が日本初の障害学生を対象にした長期インターンシップをやることを知り、面白そう!という好奇心で飛び込みます(笑)。
そして急遽、ひとり暮らしも同時スタートを切ることに。

という訳で、思い描いていたゆっくりなんて生活はどこへやら…ハードで刺激的な日々が始まります。

「働く」ってどんな感じだろう、ほんとに働けるのかな…とアルバイト経験もない私は不安だらけだったので、インターンでは「自分を試してみたい、働ける自信をつけたい」と思って参加しました。ITの知識はほぼゼロでしたが、プログラミングをかじってみたり、チームでアプリ開発をして企業にプレゼンに行ったり、障害がある社員が活躍している姿を見たりと、学校ではできない経験をしました。

インターンで得たことは、ダイバーシティ(多様性)の大切さと、障害(ハンディキャップ)は強みになると知ったことです。
今の環境を変えたいという障害者のニーズから生まれた技術や発明が、障害者だけでなく、社会の役に立っている事実を知り、考え方が変わりました。

今では当たり前のように普及している電話やキーボード、音声認識なども障害者のニーズから生まれたんですよ。気づいたら丸3年、続けられたことが自信になりました。

KAWAMURAグループとの出逢い

「就職」は最大のテーマと言えるほど、就活には苦戦しました。何度も壁にぶつかるたびに、働きたいという思いとは裏腹に、必要とされないんじゃないかと思い、どこかで障害のせいにして逃げていた気がします。
 
もうやりたいこともわからない…と、どこか諦めモードに突入していた時期もありました。

そんな時、最後の学生生活だし、やりたいことをしよう!と、チェアスキーに行くことを決めます。ただ遊びに行った先での出逢いが、人生を変えることになります。
 
そこで、はじめてKAWAMURAグループのことを知ります。

 

チェアスキーを私の身体に合わせてその場で改造してくれるのを見て、すごい!と感動しました。

今までもスポーツは好きで色々とやってきましたが、楽しそう!と思うものは「君の障害だと無理だね」などと言われ、あきらめることが多くありました。

この時も危ないかもしれないと協議になっているのを感じ、また無理って言われるのかな…と思っていた時。「やってみよう!」と言ってくれたのがKAWAMURAグループ・川村義肢㈱のエンジニアでした。危ないとか無理だと決めつけず、私に挑戦する機会を与えてくれました。

「どうしたらできるか、もっと良くなるか」を真剣に向き合って考えてくれる姿が心強く、とても嬉しかったのを覚えています。

その後、会社見学や社員の方々に会い、会社のことを知っていくうちに、就職先として意識するようになりました。
また、川村社長の「あきらめなくてもいい」という感動を買っていただいているという言葉にも胸を打たれました。

今まで私自身も悔しい思いをしてきたので、誰かの「~したい!」を応援したいし、「一緒に考えよう」とあきらめずに実現できる方法を考えたいと思い、入社しました。



 次回、私の選んだ生き方② ~How to Enjoy life and work~は9月18日に掲載いたします。