パシフィックニュース
震災特集 4
震災特集
独立行政法人国立病院機構いわき病院 作業療法士 吉崎 祥吾 佐藤 弘教
2012-04-01
震災特集を企画し、1年目が過ぎた。継続していけるだろうかと当初抱いた不安や複雑な思いは、回を重ねる毎に薄らいでいった。不思議なことに、読む者が文章の内容に感銘し、癒されていく。今回執筆いただいた佐藤氏に、失礼を承知の上で「具体的に、何に困り、どのような支援を必要としているのか。今の福島を書いていただきたい。」と推敲を依頼した。後日、再送された原稿には、放射能汚染の不安や、当時のフラッシュバックと向き合う姿が加筆されており、内心、期待通りの文面に手応えを感じていた。
しかし、数日前、最終校正の段階でそれらの文章は、一掃され、前向きに生活する患者様と職員の姿に書き換えられて再送されてきた。予期せぬ展開に不安を覚えながらも、読み進めていく内に動揺は次第に深い感動へと変わっていった。ここには、“天災”や“人災”などと、誰を恨むことなく、人命第一優先に職務を全うしている医療職の姿が書きつづられている。吐き出したい不安や疲労の全てを胸に秘め、現実を直視し前だけを向いて戦っている。まさにこの崇高な志しが今の被災地を支えているのではないだろうか。今一度、真の支援とは何かを問い直し、これからの被災地と向き合いたい。
当院は福島県いわき市に建ち、「東北の湘南」と呼ばれるほど気候が温暖で、窓からは美空ひばりの名曲「みだれ髪」にも唄われた塩屋崎灯台や太平洋が眺望できる美しい環境にあった。
2011年3月11日14時46分。いわき市震度6弱。戸棚から落下する書類やパソコン、生き物のように動くテーブル、恐怖に慄く患者様、茫然とする私達。揺れがおさまるまでの時間はとても長く、恐怖を何倍にも増幅させた。
患者様の安全を確認後、ふとリハビリ室の窓の外に広がる太平洋に目を向けるとすぐに異変に気が付いた。普段は窓から見えないはずの砂浜が見えていたのだ。「波は引いている。津波が来る。」そう思ったが頭の中でそれを否定した。それはあまりにも非現実的な出来事であって、これから起こる未来として理解することができなかったからだ。
私達はその後すぐに、中二階にある重症児病棟へ患者様の避難を開始した。30分程で避難は完了し、寒さと恐怖に体を震わせる患者様に毛布を配付していた時に窓の外を見ると黒い濁流が瓦礫や車を巻き込みながら勢いよく流れて行くのが見えた。高さ9メートルという巨大な津波に襲われたのである。私達は、その恐ろしい光景にただ茫然と立ちすくむしかなかった。水嵩はどんどん増していき「このままだとこの場所も危険だ」と思ったその時、波は徐々に引いていった。
幸い、患者様や職員は全員無事であったが、土地が低い一般病棟は浸水し、ライフラインは全て断たれた。携帯電話やテレビは使用することができず、自宅の被害や家族の安否さえ分からずに不安を抱えたままその夜は病院に泊った。外では津波に流され故障した車のクラクションが不気味に鳴り響いていた。翌朝外に出ると病院の周囲には瓦礫や車などが泥にまみれて散乱しており、まるで戦争映画のワンシーンのような荒廃した光景が広がっていた。
それからの数日間、私達は怒涛のような忙しさと苦悩の日々を送った。ライフライン復旧の目処はたたず、非常用自家発電機が故障し診療不能となったためバスや自衛隊の大型ヘリによる、全入院患者様の他院への緊急移送が開始された。当院は福島第一原発から50km程しか離れていないため、職員は放射能汚染の恐怖と戦いながら屋内外での移送業務を行い、地震から5日後に緊急移送を完遂することができた。
その後、多くの職員は移送先の病院での勤務となり、慣れない環境での業務や生活のために体調を崩す職員もいた。また、震災前と比べ身体機能が低下した患者様もおり、移送時の負担や環境変化の影響が大きいように感じた。
この緊急事態の中で、私達を一番悩ませたのは「リハビリ専門職として何ができるか?」であった。このような災害時にどのような貢献ができるのか普段考えたことがなく、その場その場で対応するしかなかった。結局、私達が行ったことは深部動脈血栓症予防、不動による廃用予防に加えて、看護業務の補助、荷物運び、清掃、患者様の他院への搬送補助であった。専門職としてもっと他にできることが沢山あったのかもしれない。しかし、緊急の状況下で専門性という枠にこだわるのは危険だと思う。一番大切にしなければならないのは専門職という自らのアイデンティティーではなく、目の前の患者様の命なのだ。それを守るため自分が持っている知識や経験を出すことが全てである。時間がたった今、そう思う。
2011/3/26 いわき病院周辺 瓦礫が散乱している
緊急避難を終えて一段落した4月上旬、当院のPT・OT数名で、いわき市内4か所の避難所訪問を開始することとなった。我々は自らの足で歩き回って避難者の話に耳を傾けるとともに、駐在している看護師や市の担当者から情報収集を行い、リハビリが必要な避難者のスクリーニングを行った。普段リハビリを受けている方が避難生活によってリハビリができなくなり、廃用症候群を呈した方がたくさんおられると想定していたが、実際は少なかった。後で知ったことだが、そのような方々は「避難所に行くと迷惑がかかるから」と自宅での不便な生活を強いられていたのだ。やはり現場に来なければ分からないことが多いことを実感した。
避難所の方々は思ったより元気で、そのタフさに驚かされた。狭い空間でのプライバシーのない共同生活によるストレス、政府・東電に対する怒り、家や仕事・家族を失った悲しみは計り知れない。それに屈せず、前を向いて歩く姿に深い感銘を受けた。東北の人は我慢強いというのは本当だ。しかし、震災の後片付けでの疲労による運動器障害、避難所生活での生活不活発病など、体に何らかの異変が生じてしまった方は少なからずみられ、震災の二次的な影響はまだまだ続くと感じた。
現在の当院は避難していた全ての患者様が戻り、以前の様子を取り戻しつつある。病院の空間放射線量はそれ程高くなく除染作業も進められているが、放射能のことを気にかけない日はない。停電時や津波警報発令時の対策も整備され、地域全体での高台への移転計画も進められているが、患者様はいつ起こるかも分からない余震と津波に不安を感じながら日々を過ごされている。職員も同様な不安を抱えてはいるが、震災前以上に明るく安全に日々の診療に励んでおり、今後も患者様の不安を少しでも軽減できるよう取り組んでいきたい。
私達が今後行わなければならないことは、この大震災での対応の中で反省した経験や記録を残し、将来起こるかもしれない災害時に備えることだと考えている。今回の経験がこの先きっと何かの役に立つ日が来ると信じている。
本稿が、もし自分の勤務先が大災害に見舞われたらどうするか、自分に何ができるのかを真剣に考えるきっかけになれば幸いである。
最後に。患者様や職員を受け入れてくれた病院関係者、緊急移送に協力してくれた消防や自衛隊、支援物資を送ってくれた方等、いわき病院を支えてくれた全ての方々に深く感謝いたします。
本当にありがとうございました。
2011/3/26 当院から見える海岸と塩屋崎灯台 砂浜にも瓦礫が残っている
2012/2/24 いわき病院周辺 家屋や瓦礫の撤去が進んでいる
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