パシフィックニュース
震災特集 9
震災特集
国保旭中央病院(千葉県 旭市) リハビリテーション科部長 藤本 幹雄
2013-07-01
被災地でバリアフリーを考える
前号(Vol.152)に引き続きリハビリテーション支援団体「face to face 東日本大震災リハネットワーク」の活動をご紹介する。2011・3・11以降、被災地には日本各地、また世界各地から多くの支援の手が入った。
あれから2年の月日が経過し「あの時、私は何をしたか」を個人個人が語り始め、SNSで発信し、その記録が出版物として目にする機会が増えてきたように思う。記録する事で、心を更地にし、見えてくる足跡がある。
それぞれの立場を超えて被災地に向かった想いが数年後、十数年後、復興の記録として活かされることを切に願う。
「face to face 東日本大震災リハネットワーク」は、有志のリハビリテーション専門職者(リハビリテーション専門医師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士)を中心に、栄養士、保育士、ボディーワーカー等も参加する、災害リハビリテーション支援団体です。
避難所におけるバリアフリー
私が実際に避難所の中に入って活動する機会を得たのは、千葉県旭市や宮城県石巻市である。旭市においては避難者の発生が限定的であったために当初から行政の管理のもとで大きな混乱もなく運用されていたし、石巻市の避難所に入った時には震災発生から4カ月が経過していたので、私が見た時点では既に避難所の状況は落ち着いていた。しかし、避難所では避難者の身体機能に対して生活環境が十分に配慮されているとは思えなかった。以下にいくつかの例を挙げる。
- 自力では床からの立ち上がりが困難な老人や片麻痺の方が、ベッドや椅子を使用しない環境での生活を強いられていた。
- 伝い歩きで屋内生活がなんとか自立していたレベルの高齢者が、トイレの場所が遠いために、水分摂取や食事の量を制限していた。
- 避難所の外が舗装されておらず、舗装された環境下ではシルバーカー等を使用して外出可能だった老人が外出不能となっており、日中ずっと床に坐って生活していた。
現場の状況を肌で感じた人間として言わせてもらえば、場所や設備、マンパワーに限りがある中で避難所を設置し運営していくには、その程度のバリアは仕方なかったのではないかと思う。そもそも、法律でも定められているように、避難所となった学校や公民館などの公的な施設は被災前から障がい者や高齢者が使用しやすい環境でなければならなかったはずである。平時に出来ていないことが、災害下の大変な状況のときに出来るはずがない。平時から障がい者にも健常者にも優しい社会を作るように活動していくことが重要なのだと思った。
仮設住宅におけるバリアフリー
仮設住宅においても、バリアフリーについて大変に考えさせられる機会が多かった。あまりに酷いのではないかと思うような事例もいくつかあった。
- 仮設住宅の断熱が十分でないために冬になってから急遽、畳が居室に設置された。しかし、元々全室フローリングのみであることを前提として設計されていたために玄関と一体になっているキッチンと居室との間に畳の厚さ分4cm程度の段差が出来てしまった。その段差で高齢者が転倒した事例もあるが、特に私が気の毒に思ったのは、ある脊髄損傷による完全対麻痺の方である。
その方は、その畳のせいでキッチンから居室に車椅子で乗り入れできなくなってしまい、キッチンでいったん車椅子を降りて床をプッシュアップしながら居室に入りベッドによじ登るような移動パターンになってしまっていた。
- 私が見てきたほとんどの仮設住宅では、浴室があまりに狭く(格安のビジネスホテルでもそこまで狭い浴室はほとんどないと思
う)、浴槽の高さは高く、手すりもない。
バリアフリーと言えば障がい者や要介護の高齢者を思い浮かべるが、そうではなく健常な老人であっても、浴槽に出入りするのが怖いので浴槽に入らずに清拭で済ませている(ちなみに真冬の話である)という方が非常に多かった。
- 我々若者でも登ると息が切れるような非常に急峻な坂を登りきった上に小規模な仮設住宅があった。そこは市街地からかなり外れており、健常者であっても徒歩で買い物に出かけたりするのは大変である。周囲は崖になっており、ガードレールは多少設置されているものの暗闇では危険な印象がある。
そのような環境の仮設住宅に全盲の方が生活していた。その方は被災前には自宅から慣れた道であれば外出できていたようであるが、あまりに環境が悪過ぎて、さすがの私も外出の練習を勧める気になれなかった。
- 入居から数カ月経過してやっと玄関先に段差の手すりやスロープが設置されたが、その先は延々と砂利道が続いていた。実際に元々使っていたシルバーカーをやめて両側T字杖での不安定な屋外歩行をしている老人がいた。昨年、我々はシンポジウムを開催して、仮設住宅のバリアについて、大手の某ハウスメーカーの方と意見交換したことがある。私はバリアが少ない仮設住宅を建築するのにはコストがかかるのかと考えていたが、必ずしもそうとは限らないようである。浴室のユニットはいったん形が決まってしまえば大量生産するのでユニットバスを作る費用はさほど変わらないとのことであった。今後災害が起こった時に不便な思いをする高齢者をなくすために、バリアフリーを意識した仮設住宅の規格を定めるのも良いのではないだろうか。
石巻の仮設住宅の浴室
スロープのある仮設住宅の外観
被災地でバリアフリーについて考える
石巻市雄勝町の熊沢という集落では、海岸近くの家は何軒か津波で流されていたが、多くの住宅は急な坂の斜面にあり、直接的な被災を免れたために自宅に残って生活している人が多かった。そして、それらの住宅では、かなりの割合で高齢者が暮らしており、リハビリ支援活動の対象となった老人も何人か居られた。老人たちの住む古い住宅は急斜面の狭い土地に密集して建てられており、土間があったりトイレが屋外にあったりするのは当たり前の状況だった。腰が曲がっていたり、変形性膝関節症で痛みが強かったり、そのような老人にとってあまりに過酷な環境に思えたが、正直、環境調整をするにしてもスペースやハード的に限界がある状況であった。当初、私は「こんなにバリアだらけのところに老人が住まなければならないのは困ったことだ。もっとバリアフリーの概念を浸透させなければならない。」などと考えていた。
ある時、私は、なんとか屋内伝い歩きのレベルで独居生活をしているおばあさんを訪問した。本来はデイサービスに行ったり、介助者とともに見守りで散歩に出たりすることが必要な状況なのだが、全く解決手段がなく、廃用症候群にならないための起立練習などの自主トレを指導したり、できる範囲で環境整備を行って少しでも屋内での移動がしやすくなるように支援した。
そのおばあさんは、熊沢は過去に何回も大津波に襲われていることを話してくれた。おばあさんによれば、元々は海岸のすぐ近くにあった熊沢の集落が、津波の被害に遭う度に高台へ高台へと上がっていった歴史があるらしい。伝い歩きがやっとの老人であるから、仮におばあさんが海沿いの平地にバリアフリーの家を建てて生活していたならば、地震から津波が到達するまでに高台の上まで避難することは出来なかったであろう。バリアフリーの環境も、命を失っては意味がない。私は目からウロコが落ちた気分だった。老人にとって決して優しくないアンチバリアフリーの環境は、津波から命を守るために先人達が歴史から学んできた文化でもあったのである。
バリアフリーの理念を絶対の価値観だと信じてきた私だったが、その価値観を信じて啓蒙しつつも、同時に歴史や文化を理解しながら自立や参加を支援していくことも重要なのだと考えた。被災地では各地で街づくりが計画されている。それらの地域では、熊沢の先人が津波から命を守る集落づくりをしてきたのと同じように、街づくりに今回の教訓を活かしていくことが大切なのだろう。今回復興していく地域においては、命を守る文化とバリアフリーの概念を両立できれば素敵なことだと思う。
雄勝町熊沢の集落
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