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「太陽の家」見学レポート

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「太陽の家」見学レポート

「太陽の家」見学レポート

大屋 正子(パシフィックサプライ㈱・事業開発本部)

2017-03-01

2017年1月20,21日「第26回日本障がい者スポーツ学会in大分」が別府市太陽の家コミュニティセンターで開催されました。その学会前日のプレ企画として「太陽の家」見学ツアーに参加いたしましたので報告させていただきます。

No Charity, but a Chance

皆さまは、大分県別府市にある「太陽の家」をご存知でしょうか。社会福祉法人太陽の家は1965年中村裕医学博士がNo Charity, but a Chance! 障がい者に保護ではなく働く機会を を理念とし、障がい者が社会の一市民として働き、自立した生活をする場を創設しました。
 

No Charity, but a Chance! 
~人間としての尊厳が保たれる社会の実現~
太陽の家は障がい者が働き、生活する施設であり、地域社会の一住民として普通に暮らしています。1965年の創立以来、障がい者の働く場づくりに取り組み、多くの人が社会復帰しています。たとえ身体に障がいがあっても働く能力は関係なく、太陽の家では、仕事や生活の場においてユニバーサルな環境づくりに努めています。また、日常生活で常に介助を必要とする重度の障がい者も地域と交流を深めながら生活を楽しんでいます。障がい者にとっての太陽でありたい、それが太陽の家の願いです。 
                (社会福祉法人太陽の家webサイトより)

 

1960年、国立別府病院の整形外科医であった中村博士は、ヨーロッパ留学中にグットマン博士の「身体障害者に最も有効な治療方法はスポーツである」というリハビリテーションにおけるスポーツの効用を提唱する指導に深く感銘し帰国しました。


日本では「治療は安静が中心」の時代、中村博士は医師・体育関係者・県庁・身体障がい者などを熱心に説得し、「大分県身体障害者体育協会」を設立、1961年「第1回大分県身体障害者体育大会」を全国で初めて開催しました。1962年7月、ストーク・マンデビル大会に国立別府病院(当時)から2名の選手とともに参加(自分の愛車を売って旅費を捻出)、その後1964年、第2回パラリンピック東京開催。1975年第1回フェスピック大会(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会 Far East and South Pacific Sports Games for the Disabled )開催、1981年第1回大分国際車いすマラソン大会開催へと日本やアジアの障がい者スポーツ振興へと多大なる貢献をされています。
 

中村博士とグットマン博士(太陽の家HPより)

ストーク・マンデビル大会(太陽の家HPより)

障害者の自立・雇用の機会創出

1964年東京パラリンピックの開催時に、参加した外国人選手は皆職業を持っており、自立した生活を送っているような人ばかりでした。滞在中の様子は活動的であり、試合後は食事やショッピングを楽しみ、健常者と同じ行動をしています。それに比べ、日本人選手は、殆どの人が自宅か療養所で保護されて、世話を受けている現実を目の当たりし、外国選手と日本人選手との大きな格差を感じます。


『この国には障がい者をやとってくれるところがあまりにも少ない。スポーツを通じて健康を回復した彼らになら仕事はできるはずだ。ないならつくればいいじゃないか。これをつくらなければ障害者の社会進出はない。』
               (太陽の仲間たちよ P160、161抜粋)



翌1965年『世に心身障害者はあっても仕事に障害はありえない』『保護より働く機会を』と提唱しオムロン・ソニー・ホンダ・三菱商事・デンソーなどの大手企業と連携し、太陽の家を創設。障害者の自立した生活へと大きく貢献しました。

社会福祉法人太陽の家のホームページには、太陽の家が創設されるまでの歴史が掲載されています。
また中村博士の著書『働く仲間たちよ』等太陽の家ライブラリー http://www.taiyonoie.or.jp/library  のなかで貴重な著書を読むことができます。 すでに漫画『太陽の仲間たちよ』(講談社出版)は5刷を重ねています。

歴史資料館

漫画:太陽の家

『太陽の家』という名の風土

1月20日雪のちらつく別府市亀川駅から徒歩5分、閑静な住宅地に太陽の家はありました。かねてより「太陽の家」のファンである同僚からのレクチャーやまた漫画「太陽の仲間たちよ」を読み、イメージを膨らませていましたが、JR亀川駅を降りてから太陽の家に向うまでの案内標識や、駅員さんの対応、行き交う人たちの風景に言い表せない心地良さを感じ始めていました。
 

まず目に飛び込んできたのが、太陽の家のシンボルマークを最上階に掲げたビル。オムロン、ソニー、富士通、三菱商事の名前がつらなっています。下請けではなく共同出資者として当事者を経営にも参画させた企業名のロゴは、ひと際、気高く見えました。法人内には、スポーツ施設や、公衆浴場、コミュニティセンターなど地域の方々が利用できるようになっています。また施設のすぐ向いには、大分銀行太陽の家支店があり、誰しもが利用しやすいように低いカウンターが設置され、障がい者の方が多く勤務しています。またバリアフリー化された住居も完備されている施設内建物は2F~6Fまで廊下が斜めのスロープで、車椅子利用者が暮らしやすい設計です。すぐ側に沿岸がある地域なので地震、津波による災害時の地域の避難場所に指定されています。

敷地内には、スーパーマーケット・サンストアがあり、近隣住民の方々も買い物をしている姿が見受けられました。店内に入ると低い位置に商品が陳列され、レジの台も昇降式で高さが変えられます。レジを打つ車椅子の従業員の方に『働いて何年目ですか?』と聞くと『10年になります』と。きっと見学に来られる方も多いのでしょう。従業員の方々は、皆さん説明がわかりやすく丁寧でした。

通常、人が車椅子に乗った時の目線の高さは、約100~110cm。信号も低い位置でボタンが押せます。病院やリハビリセンターも隣接しており、地域住民の方々も利用しています。よく見受けられるような障がいある方々だけが利用し、施設内で暮らすのではなく、市民の一人として地域で自立した生活を送ることができる。それがこの地域の風土になっていることに強い衝撃を受けました。きっとこの土地で生まれ育った子どもたちはこのソーシャルインクルージョンの社会を疑うことなく大人になっていくのでしょう。

工場棟

スーパー・サンストア

大分銀行太陽の家支店

仕事に障がいはありえない

15時15分(イコーイコー)スタートの施設内見学会では、オムロン太陽株式会社、株式会社富士通エフサス、三菱商事太陽株式会社各社の障がいある方々の働く工夫や、職場環境整備、作業しやすい治工具等を見学できたのは大きな収穫でした。

○オムロン太陽株式会社
スイッチやリレーソケット部品の製作をしており、手が不自由な社員の為に、ドライバーを磁石にして、細かいネジを取りやすくする工夫や、障がいを補う冶工具を製作し、生産性、作業効率を高めています。作業通路も広く車椅子同士が対面通行できる幅を確保していました。
 

○富士通エフサス太陽株式会社
銀行ATMやパソコンのリペア事業を中心に行っており、システムサービス部では、ICT機器の管理、基幹システム運用、翻訳等多岐に渡り新たなサービス事業へ展開しています。システムリペア部では、ATMやパソコンのメンテナンス時に、重い機材を載せるターンテーブル台を設置するなど、誰もが負担なく作業できるように配慮されていました。また親会社である富士通エフサスのダイバーシティ・マネジメントの一環として一般社員を対象にした社内の障がい者雇用研修をこちらで開催しています。
 

○三菱商事太陽株式会社
入室してすぐ目を引いたのが、フロア全てがガラス張りになっており、社内の活気を感じました。約100名いる社員の2/3は障がいある社員です。車椅子の社員が多いことを除けば街中のオフィスと全く変わらない印象を受けます。IT事業のシステム開発、三菱商事の人事関連システム、大分県、国立リハビリテーションセンターの福祉関連システムなどを手がけています。同フロアには、疲れた時にすぐ身体を休める個室の休憩室があり、部署を仕切るパーテーションにはカーブミラーが設置されていました。
 

故・中村博士の提唱された「世に心身障害者はあっても仕事に障がいはありえない」の理念がどの企業からも感じられます。個々のハンディは改善の積み重ねやテクノロジーがバリアを失くしていきます。ここには、障がい者でも出来る仕事ではなく、健常者以上に専門性を持ち、仕事に誇りを持って働く人たちの姿がありました。歴史資料室に展示されていた、手足に不自由な人が作業しやすいように設計された自助具や冶工具の数々。この冶工具やオリジナルの支援機器がもっと以前に他の企業に広がれば、より多くの障がい者が働けたのではないだろうかとふと頭をかすめました。

「障がいは人にあるのではなく社会にある」という言葉が何度も何度も浮かんできました。

 

工場棟

ウェルカムボード

歴史資料館

ソーシャルインクルージョン

日本障がい者スポーツ学会の2日目に、社会福祉法人恩賜財団齋済生会・炭谷茂理事長の「ソーシャルインクルージョン」と題した基調講演がありました。「ソーシャルインクルージョン」とは、就労、教育、スポーツなど具体的な行為で人と人との結びつきを作り、地域社会で障がい者、高齢者など多様な人たちが助け合いながら、ともに生きがいある人生を送ろうとするものである。と提唱され、海外や国内の就労事例は、心動かされるものがありました。

今回の日本障がい者スポーツ学会のテーマは『日本障がい者スポーツ発祥の地で改めて考えたいこと』です。障がい者スポーツに全く無縁な私がこの大会に参加しようと思った理由は、昨年2月、進行性難病を抱えながら逝ってしまった同僚社員の言葉にあります。彼は進行性の病ゆえ、入社当時、松葉杖だったのが、自走式車椅子、そして電動車いすへと代わっていきました。重度である身体のハンディはありましたが、PC支援機器やヘッドセットを使うなど働きやすい環境を周囲の同僚が整えていきました。

彼は、電動車椅子サッカーチームにも所属しており、スポーツも楽しんでいました。社内で私たちが取り組んでいる障害者就労支援の活動にも助言や協力をしてくれて「僕よりも障害が軽い人がチームに何人もいるのに働けない現状がある。僕がスポーツをできるのも仕事があるから。職場の皆が働ける環境を作ってくれたから今がある。身体がしんどいと思うこともあるけれど、この会社をやめる時は、『自分をあきらめた時』だと思っている。」と語っていました。亡くなる1週間前まで働いていました。あまりに突然逝ってしまった同僚ですがその働き方や、生き方は私たち社員に多くの示唆と課題を託して逝ったように感じています。
 

今学会の、一般演題には、事務局が予想を上回る演題申込みだったようで、医療職を中心に、多種多様の領域からの発表が行われました。2020年東京パラリンピックに焦点をあてた研究発表が多いことも注目されました。

確かに、障がい者スポーツに社会の関心が高まってきたことは、障がい者スポーツの発展や障害者への理解につながることなのでとても喜ばしいことです。しかしパラアスリートだけに注目が集まるのではなく、障がいある全ての人がスポーツを楽しめる社会であって欲しいとも願っています。そのためにも自立した生活を送る為の環境要因のひとつとして、就労の問題は大きなテーマであると考えています。

スポーツは目標を課し、それを乗り越えることで自分に自信を与えてくれます。それは仕事も同じだと思うのです。できないと考えていた仕事が工夫や改善により、出来るようになり、本人の大きな自信となります。その時、仕事の上で障壁は消えていきます。中村博士の「世に心身障害者はあっても仕事に障がいはありえない」の言葉は、私たちが社内で取り組んでいる就労支援活動の中で、幾度も感じた教訓です。障害ある同僚や真摯な実習生から沢山の学びや課題をいつも突きつけられているように感じています。

 

別府市は人口の約1割が障がい者であると伺いました。バリアフリーな街は暮らしやすく、全国から障がいある人が移住してくるのだそうです。3日間滞在した別府市では、車椅子の方や装具を付けられた方々と頻繁に出会いしました。居酒屋にも車椅子用トイレがあります。海外からの留学生も沢山住んでおり、店頭のバイトらしき学生が笑顔で迎えてくれます。「太陽の家」があることで、別府市はソーシャルインクルージョンへと変化を遂げていったのかもしれません。


最後に、懇親会の席でお話させていただいた法人太陽の家・山下副理事長の言葉が忘れられません。

「障がい者差別解消法が制定されたけれど、実は僕は反対だ。あの法律は障がい者と健常者の間を余計に隔ててしまう。」


障害者となり、太陽の家と出会い、仕事を得て、結婚し、子どもも成長した。自立した人生を歩んで来られた方の強靭で、高潔な言葉でした。

第26回日本障がい者スポーツ学会

歴史資料館の柱

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